深山の人里離れた山奥に、誰も近寄る事がないであろう脇道の
奥へ奥へと進んで行くと、そこには不動の滝といわれている修行の場があった
滝場には不動明王様に、コンガラ童子とセイタカ童子を従えるように奉られている
まだ午前中の明るい日中のはずだが、周辺は鬱蒼とした高い杉木が生い茂り、まるで来る者を拒むかようにその場所へ日の光が遮るのを許さなかった
薄暗い滝場、もう五月だというのにひんやりと冷たい空気が吐く息を白くさせる、体じゅうに重く伝わってくる落水の音がまるで別世界に迷い混んでしまったような錯覚を起こすのだった
作務衣を脱ぎ捨て真っ白な褌一枚の姿になった龍玄和尚と、その様子を滝場周辺の雰囲気に恐怖感を覚えながらも手を合わせて見ていた虎之助
この日、虎之助は滝行という古来から伝わる修行を生まれて初めて目の当たりにする事となる
もし今日の出来事が無ければ、虎之助の人生は別のものとなっていただろう
わんぱく盛りだが、まだ幼さが残る思春期へ突入したばかりの虎之助
滝修行を勤む龍玄和尚の本当の姿を知った時だった
龍玄和尚の顔つきが恵比寿様から明王様のような表情に変わる
垂れ下がった眉毛は「ぐいっ!」と天を向き、半分瞑ったような細い目は「ギロリッ!」と開き、その鋭い眼光を光らせた
息を鼻から吸い上げ、丹田にグッと力を入れて呼吸を止めると恰幅の広い体から筋肉が浮かび上がる
そして盛り塩を片手にとり
まるで横綱力士のように「パァーッ」と滝場に清めの塩を撒く、残りの塩を頭、顔、肩、腹、最後に尻に「バシンッ!」と強く叩きかける
虎之助は「龍玄さん、力士の取り組み前の動作みたいな事してる…何やってんだろう…」
キョトンとしていたその時だった…
「えぃやぁぁぁぁあぁぁああっ!!」
龍玄和尚が突然大きな声を発したのだ
虎之助はその奇抜な発声に「ビクッ!」と驚いた
そして龍玄和尚は続くように経を唱える
「うぉんさらば!たたぎゃたはんなまんなのぉう~きゃろむぅぃい~!!」
「無上甚深微妙法」
「百千万劫難遭遇」
「我今見聞得受持」
「願解如来真実義」
「我昔所造諸悪業」
「皆由無始貪棯癖」
「従身語意之所生」
「一切我今皆懺悔」
「むじょぉう~じんじんむぅいんみょうほぅひゃくせんまんごぅなぁんそぅぐぅ~…!!」
虎之助はまるで龍玄和尚が落武者の霊に取りつかれてしまったのではないかと疑うほどの豹変ぶりに恐怖を感じた
いつも本堂での読経は見慣れていたものの、滝場に立つ龍玄和尚はまるで本物の明王様のようだった
「のうまくさんまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたや………」
「うぅんたぁらぁたぁ~かんまんっ!!」
そして不動明王様の御真言を七反唱えると、龍玄和尚は力強く落水が降りそそぐ不動の滝に入った
「ドドドドドドドドドド…!!!!」
入滝した龍玄和尚は手を印に組み、さらに形相を変えて力強く御真言と般若心経を唱え始める
「佛説摩訶般若波羅密多心経
觀自在菩薩行深般若波羅密多時…!」
あまりの龍玄和尚の迫力に圧倒された虎之助、普段の恵比寿様のようにニコニコしたり、のんきに「ぶぅぅぅううっ!」と大きな屁をこく姿とはまるで別人
いつもの優しい龍玄和尚が、恐ろしい形相の明王様のような姿になっている
虎之助は本当に龍玄和尚が落武者の霊に取りつかれたんだと思い込み、心配と恐怖感が心の中に切実な想いで伝わってくるのだった
不動明王様、どうか龍玄さんを落武者の亡霊からお守り下さい…
虎之助手を合わせながらも落武者の供養よりも龍玄和尚の無事を心から祈っていた
しばらくすると、先程まで恐ろしい形相だった龍玄和尚の表情が、今度は大師像のような清らかで優しい表情へと変わり始める
大きな声で発していた御真言や般若心経も、リズムが一定し、普段から本堂で唱えているような落ち着いた読経になる
虎之助はまるで仏様のようになった龍玄和尚の修行姿にすっかり魅せられてしまい、いつしか憧れの男から、自分が将来目標にする理想の男へと思いが重なり始めるのだった
薄暗い滝場の空間
「ドドドドドドドドドド…!!」
と鳴り止まぬ力強い落水
吐く息が白くなるほどの冷たい空気
褌一枚で潔く滝に打たれる龍玄和尚
中学生に入学したばかりのわんぱく坊主の虎之助の瞳には、その別世界の滝場周辺の風景と、勇ましい龍玄和尚の姿が鮮明に映し出されていた
そして、僕は大人なったら
大相撲の力士でもなく、家を継いだ農夫でもない
龍玄さんみたいな男になるんだ!
胸を熱くして心に誓ったのであった
続